真生窯のあゆみ 〜真生窯の色〜真生窯の絵付

日本でも数少ない磁器の材料となる良質な陶石が採れる小松市は、再興九谷が始まった江戸時代から続く九谷焼の産地です。

九谷焼の発祥である古九谷は、江戸時代初期に石川県加賀市山中町の九谷村で作られますが、約50年ほどで閉窯します。しかし、その後も九谷焼に魅了された多くの人々が、九谷焼の再興に尽力しました。江戸時代後期から再興九谷が始まり、同時期に小松市で良質な陶石が発見され、築窯が相次ぎ名産地へと成長します。

真生窯初代の宮本忠夫は、1928年に京都市上京区に生まれます。
生家のあった西陣は織物の町であり、幼少期より身近にあった着物の図案帳を時間を見つけては夢中で模写していました。

そんな中、太平洋戦争が起こり、疎開で石川県小松市へ移住することになります。
絵心があった忠夫は、奥深い古九谷に魅せられ、九谷焼の名窯であり再興に尽力した松雲堂の二代松本佐吉(※1)に師事します。

松雲堂での修行は過酷でした。
忠夫は工房仕事の休憩時間を割き、松雲堂に伝わる下図の運筆を忠実に学び、更に夜中に起きてはカストリ雑誌の余白に線描の練習を重ねました。

日々必死の研鑽を続けることで絵付の腕が上がり、今に繋がる「生きた線描を描く」ということが作品作りの背骨になっていきます。

修行時から書き溜めた図案は膨大な量であり、現在も窯の貴重な資料として大切に保管されています。

※1:二代松本佐吉
明治38~昭和63(1905~1988)能美郡寺井町に生まれる。旧姓岩田、本名吉二。上絵師梅田梅光に庄三風を、初代佐吉から古九谷・吉田屋風を学び、その養子となり、松雲堂4代を継ぐ。板谷波山に師事し、陶彫や象嵌など陶技の幅を広げ、昭和13年新文展初入選、戦後は日展、31年から日本伝統工芸展に出品。51年石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会会員。

修行を積んだ忠夫は42歳で独立し、小松市平面町に窯を構えます。
当時の作風は古九谷・吉田屋の写しが中心でありましたが、次第に絵付が緻密さを増していきます。

九谷の伝統を守りながら、鴛鴦(※2)や鶴、松竹梅などの吉祥文をメインに描き、背景を唐草や青海波などの小紋でびっしりと描き埋めるという唯一無二な作風に昇華していきました。
一つ一つの作品が全て手描きで絵付され、多いものは上絵窯で10回以上焼成されます。

忠夫が生み出す作品は年間で十数点ほどで希少かつ貴重である事から、細密画の極致「幻の九谷」と言われています。

※2:鴛鴦(えんおう) オシドリのつがい。「鴛」は雄の、「鴦」は雌のオシドリ。

1971年には忠夫の長男 雅夫が生まれ、’96年東京藝術大学卒業後に真生窯に入り、同年の第43回日本伝統工芸展に出品し初入選します。

窯に入った当初は産地でモノを作るという事を意識的に排除し、自作を九谷焼と謂わずに色絵磁器と称していました。しかし、亡き母の「今のうちにしっかりと父の技を習った方が良い」という言葉を契機とし、産地にこだわることはとても自然であると思うようになります。

雅夫は肩の力が抜けると同時に、足元を見渡すと初代である父 忠夫が確立した色絵細描技法が他に類がない自窯の大きな強みであるという事に気づきます。

「青手」という世界でも稀な表現が、自らの最も身近な存在であった九谷にあるということを再認識し、その稀有な青手を自らのフィルターに通して進化させた「緑彩」という表現を生み出します。

初代の色絵細描技法を継承しつつ、色・形・マチエールを精緻なまでに追求した緑彩をはじめとする技法で作品を生み出し、現代の青手九谷の新しい表現に取り組み、あゆみを続けています。

真生窯の色

九谷焼は、伝統的に九谷五彩といわれる「紫」「黄」「緑」「紺」「赤」の5色で表現されます。九谷の和絵具は焼成時の剥離や泡が吹いたり、窯の中のゴミが釉面に付くなどトラブルが多く、焼く前と焼いた後が全く変わるので扱いが難しいと言われています。

宝石のように煌くガラス質に変化する真生窯の上絵具は、長年に渡り試行錯誤を重ねて独自開発されました。剥離がしにくく透明度も高い事が特徴で、九谷産地の中で最も高い900度で焼き上がります。
「塗っては焼き」を十数回繰り返すことで完成する作品は、色彩に鮮やかさと深みがあり、立体感と質感のある独特の表情を見せます。

真生窯の絵付

一本の生きた線が模様となり、その集合体が絵となる。

九谷焼は絵付けを離れて存在しないと言われます。
小紋だけでなく、具象のモノとを構成して表現する緻密な絵付けの技術は、写生だけではなく、先人の作品を筆づかいなど含めて忠実に模写する修練によって培い得た技術です。

写実ではなく、工芸的な線描に落とし込む事が真生窯の伝統であり、具象のモチーフだけではなく、幾何学模様であっても「一本の生きた線」にとことんこだわり絵付をしています。